この記事には、「何か恐ろしいことが起こりそうだ」というタイトルをつけたかったくらいだ。なぜならこの記事は、早いうちから読み始めた子供がどういうことになるかについて、世の中で言われているぞっとするようなことについての話から始まるからだ。赤ちゃんと学習にかんする固定観念について述べてみたい。
思い込み・その1:あまりにも小さいときから読み始めた子供は学習障害になる
真相:
私たちは、子供が1歳、2歳、3歳のときに読むことを教えた何千人もの両親を直接に知っています。それに加えて、何千人ものお母さんやお父さんから、小さな子供に読むことを教えてとてもうまくいったことを書いた手紙が私たちのところに届いています。
しかし私たちは、読めるようになったために問題を抱えてしまったという子供は、ただのひとりも知りませんし、聞いたこともありません。少なくとも読むことに関してはそうなのです。3歳で読めるようになり、読むことが大好きになっても、転んで唇を切ることは防げませんが、その子が6歳になってもまだ読めないという状態は防げるのです。
学校で読みに問題のある子供の割合がとても高いといって驚いている人がたくさんいることのほうが、私たちにとっては理解に苦しむところです。そのことは、私たちにとって驚きでも何でもありません。それよりも、ごく自然に簡単に物事を学びとれる年齢が終わろうとしている6歳になってから読むことを学び始めて、それでも読めるようになることのほうが驚きなのです。
思い込み・その2:あまりにも早くから読み始めた子供は読みの問題をかかえることになる
真相:
そういうこともあるかもしれません。でも、私の口からそう言わせたいなら、そうなってしまったことを書いたお母さんたちからの手紙が少なくとも200通なければなりません。ところが、そういう手紙はきていないのです。自分の赤ちゃんに読みを教えるにあたって困ったことがいくつかある、という手紙は1ダースほどきています。こういう手紙を読んでみると、ほとんどの場合、進めかたが遅すぎて赤ちゃんを退屈させてしまっているのがうまくいかない原因であることがわかります。赤ちゃんは言語の天才です。赤ちゃんは火事の炎が広がるのと同じくらいのスピードで学びとることができるのです。赤ちゃんを退屈させることは重罪です。吹き抜ける風のようなスピードで、楽しく進めてください。そうすればきっとうまくいきます。
世界各地から何万通もの手紙が私のところに届いています。赤ちゃんに教えるのが何と簡単なことか、そして学ぶことが(親にとっても子供にとっても)どんなに喜びに満ちた楽しいことかを伝える手紙です。
読むことができる子供が、読みの問題を抱えることはありません。読みの問題を抱えるのは、読むことができない子供です。
それだけではありません。6歳で小学校に入ったときにすでに読むことができるならば、いいスタートを切っただけでなく、その後もずっと、よく読める子供でいられるのです。
アメリカの学校に行って、どこかのクラスの先生にこう言ったとします。何年生のクラスでもかまいません。「先生、このクラスでいちばん学習能力のある生徒を5人、指名してください。」
すると先生は「リドウィナ、ブルース、スージー、フランク、アン、前に出なさい」と言います。つぎに私はこう言います。「先生、学習能力のいちばん低い子供を5人、指名してください。」先生は言います。「シドニー、リサ、ロジャー、マージョリー、バート。今名前を呼ばれた人、あちらの隅に行きなさい。」
こうして私には、最初の5人の子供は「クラスでいちばん読みの能力のある子供」で、あとで名前を呼ばれた5人は「クラスでいちばん読みの能力の低い子供」だということが分かるのです。
これはほとんど例外なくどのクラスにもあてはまります。
学校で(あるいは人生で)問題を抱えるのは、「読める」人ではなく「読めない」人なのです。
今度は、お母さんが赤ちゃんに何かを教えたなら、そういう子どもは問題児になると思っている「権威」がお母さんたちに突きつけているふたつの思い込みについて考えてみましょう。ひとつは、悲劇的とも言えるし、ばかばかしくて笑ってしまうようなこととも言える固定観念です。(実は子どもたちが3歳までに学ぶ事実の数々は、その後の人生で学ぶ事実よりも多いのです。)
思い込み・その3:あまり早くから読み始めた子供はこましゃくれた嫌味な天才児になる
真相:
「権威」の皆さん、いいかげんに作り話はやめてください。一緒に考えてみませんか。小さいときから読んでいる子供は、できの悪い生徒になるのでしょうか、それともとてもよくできる子供になるのでしょうか。驚いたことに、思い込みその1とその3を、何ひとつ疑うことなく信じている人がたくさんいるのです。しかし実はこのどちらも本当ではありません。私たちは、早くから読めるようになった子供たちを何千人も知っています。私たちが知っているこの子供たちは、ほがらかで、適応能力のある子供です。ほかのどんな子供より、楽しみをたくさんもっている子供です。早くから読めるようになった子供は、どんな問題にぶつかっても解決することができるなどと言うつもりはまったくありません。ぐるりと見渡してみれば、皆さんの周りにも、小さいときから本を読んでいたのに、何かがあっていやな子供になってしまったという子がいるかもしれません。
私たちの経験からすれば、早くから読み始めた子供のなかにそういう子供がいる割合は、学校に入ってから読むことを覚えた子供のなかにいる割合よりずっと低いのです。学校に入ってから初めて読むことを教わった子供の30%は、読むことを身につけられないのです。皆さんも、読むことを教わるのが遅かった子供や、読むことができない子供のなかには、憂鬱そうで、周囲とうまくやっていけない子供がかなり多いことにきっと気がつくでしょう。これは決して珍しいことではありません。
思い込み・その4:あまり早くから読み始めた子供は音声体系を身につけられない
真相:
子供がフォネティックス(音声体系)を身につけられないことはあるかもしれませんが、だからと言って、大きな問題にはなりえません。
フォネティックスとは、「話しことばの音声、その表出、あるいは文字を使ってそれを書き表すこと、およびそれらに関連したこと」と定義されます。
3歳の子供に読むことを教える分野の真の開拓者であったO・K・ムーア博士は、読むことを教えるについての「フォネティックス」派と「目で見て話す」派の間のおろかな論争を、不毛の戦いと表現し、それに巻き込まれることを拒否しました。
皆さんも自分に問いかけてみてください。「私の子供が赤ちゃんのとき、私は、言葉をフォネティックス方式で聞くように教えたかしら、それともただ話しかけただけだったかしら?」さらに「そのときうちの子は、どれだけ上手にそれをこなしたかしら?」とも問いかけてみてください。あなたの子供がそれなりに言語を聞き取り、話すことができるようになっているなら、あなたの使った方法はなかなか良い方法だったと言っていいでしょう。
耳から聞いた「話し言葉」を理解するのは脳の機能であり(もちろんそのとおり)、目で見てものを読むことを学ぶのは学校の勉強だという考え方は、まったくのナンセンスです。どちらも同じ、脳の機能なのです。
健常な小さな子供はみな、赤ちゃんのときに周囲の人々が話している母国語を耳から聞いて、話すことを覚え、その結果として話し言葉が理解できる状態で学校に入ります。
赤ちゃんのときに「書いた」言葉を見せてもらわなかったら、小さな子供は言語を「見る」ことを知らないまま学校に行くようになり、その結果、なかなか読めるようにならなかったり、読めないままになってしまったりするのです。
書いた言葉を見せてもらっていた小さな子供たちは、「読める」状態で学校に入りますし、実際にとてもよく読めるようになっているのです。こういう子供たちは、話し言葉は耳からフォネティック式に覚えていったとしても、読むことは音声を通じて覚えたわけではありません。それでも彼らは、音声の識別にかけては、フォネティックの第一級レベルです。子供はだれも、言語の天才なのですから。
子供が小さなうちから読むことを教えたならば、たしかに音声学的なことは抜けてしまうかもしれません。でも、読めるって素敵なことではありませんか?
思い込み・その5:あまり早くから読むことを覚えると1年生になったときに退屈する
真相:
子供が学校で退屈することは確かです。1年生はみんな退屈しています。
皆さんも小学校1年生のときを思い出してください。たった半日が、とても長く感じられませんでしたか。土曜日や日曜日と比べて、学校での時間がどんなに長く感じられるか、1年生に聞いてみたらいいでしょう。でも彼らの答えは、学びたくないという意味なのでしょうか。とんでもない。5歳になれば、複雑な会話を交わすことができるようになっているはずです。幼稚園児二人が休憩時間に、空を飛んでいる707機は超音速かどうか、というような話をしていました。そしてベルが鳴ったときマイクルはジョシュに「あ、ビーズにひもを通すつまらない時間にもどらなきゃ」と言ったという話を聞いたことがあります。
賢い7歳の子供が「ぴかぴかの新車の話」を読みたがったとき、退屈しているからそんなものを読みたがるといって責めますか?子供は、ただ見るだけではないのです。車の名前、製造会社、製造年、ボディーのタイプなどが分かるし、馬力まで知っているかもしれません。新車について知りたいことがあったら、その子に聞いてごらんなさい。あなたがあまり車に詳しくないなら、聞いて教えてもらったらどうですか。きっとあなたよりもずっとよく車のことを知っているでしょう。
興味を満たすだけの価値のある教材が出てくるまで、子供はずっと学校で退屈し続けるでしょう。
いちばん多くのことを知っている子供が、学校でいちばん退屈していると考えるのは、知識のない子供は、物事に対してもっとも強い興味を示すから、退屈することもないと考えるのと同じです。
でも学校が子供の興味をかきたてるようなところだったとしたら、退屈するのは物事を理解できない子供だけではないでしょうか。
皆さん、小学校時代のことを覚えていますか。もし覚えているならば、その記憶は私の記憶とまったく同じだと思います。
私は、学校に行ったらすばらしく楽しい時間が過ごせると楽しみにしていました。
学校に入ったとき、担任の先生は(私の目には100歳かとも思える人でした)、私のことを勉強嫌いだときめつけ、お尻をたたいてでも勉強させなければならない子供だと思ったようで、こう言いました。「しょうがない子ねえ。座りなさい。私のほうをちゃんと見なさい。黙りなさい。そして私が考えているのと同じことを考えなさい。」
先生が座らせたいところに私を座らせることができたこと、見せたいもののほうに私の視線を向けさせることができたこと、そして私を黙らせることができたことは、驚きに値することでした。しかし先生は私に、先生と同じことを考えさせることはできませんでした。それは私にとって幸運でした。そのおかげで私はまともでいられたし、自分で物事を学ぶことができたのですから。
その後の1000年もの間、いや、50年だったかもしれませんが、先生は面白くもないことを延々と話し続けました。でも私はその話をほとんど聞いていませんでした。先生が話し、ほかの生徒たちが先生の言うとおりにその話を聞いている間、私はニュージーランドのあの登山家がエベレストに登るずっと前にエベレストの頂上を極めていましたし、クストーよりも深く海にもぐっていました。
私にとって学校での時間は、時々恐怖に襲われる瞬間はあるものの、果てしない退屈の年月でした。そのあいだ私は独りで、ライフルで身を守りながら信頼のできるラクダに乗り、サハラ砂漠を旅していました。立ち止まってスフィンクスを眺め、驚きと喜びを感じていると、どこかから誰かの声がします。「グレン!」私の名前が呼ばれているようです。スフィンクスが話しかけてきたのではなさそうです。ラクダの声でもない、私自身の声でもありません。私の意識は少しずつ現実に戻っていきます。そして間もなく、スフィンクスを発見した喜びは、恐怖に変わります。
先生の質問に答えられないという恐怖ではありません。何を質問されたのか分からない恐怖です。
皆さんも似たような経験をしていませんか?
マーク・トゥエインは、自分の学習を学校が邪魔することを許さなかった、と述べています。
私もそのようにしたつもりです。
皆さんはどうですか?
学校に行く前に読むことを身につけたら、あなたの小さな子供は学校に行ってから退屈するでしょうか。まともな子供なら、退屈するでしょう。問題は、退屈によって引き起こされる問題から自分を守れるのは、どういう子供かということなのです。いちばん賢い子供でしょうか、いちばん鈍い子供でしょうか?
人間能力開発研究所創立者
グレン・ドーマン