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子どもたちのサクセスストーリー

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本当の革命は親の手で

 

  40年前、この研究所にやってくる脳障害児たちが、ごく普通の健常児よりも高い読みの能力を発揮し始めたとき、私たちは自らに問いかけました。「脳障害であることが有利に働いているのだろうか?」 

 重い脳障害のある子どものほうが、健常な子どもより知的な面で条件が有利だなどと考える人はいないでしょう。しかし、人間能力開発研究所が提唱する《穏やかな革命》が始まってからすでに40年以上が経った今でもなお、最重度(私たちは「難度」と言っています)および重度の脳障害のある子どもたちが、同年齢の健常児を上回る能力を発揮しています。それどころか、研究所のプログラムをおこなっている脳障害児と、同年齢の健常児たちとの差は、かえって大きくなっています。大きく遅れをとっているのは、健常児のほうなのです。

 気の毒な子どもだとして世間から同情されているあいだに、脳障害児たちは速読の能力を獲得し、高度な数学をこなし、3つ目、4つ目の外国語を身につけています。真のルネサンス的教養をもった人間になっているのです。

 研究所のプログラムをしている脳障害児たちは、障害の程度にかかわらず、健常児よりも有利な条件にあることは、今では確かなこととなりました。

 彼らは学校に行っていません。

 学校には行かず、家庭で、お父さんやお母さんから教えてもらっているのです。こうした親御さんたちは、学歴の高い人もいれば、ハイスクールに行ったことのない人もいます。こういう方々が素晴らしい教師になっていることには、一点の疑いの余地もありません。

 現在アメリカ合衆国で、このように家庭で教育を受けている子どもの数は百万人にのぼります。ペンシルベニア州では、20万人ほどがホームスクーリングで学んでいます。

 何よりもまず、裕福な人々は子どもを公立学校にはやりません。中流程度の収入のある家庭は、10年ほど前から、子どもを公立学校から引き上げ始めています。校内で子ども同士の殺人事件が起こるようになってきた現在、この傾向には拍車がかかっています。低所得層の家庭の子どもたちは、国の恥ともいえるような学校に行っています。こうした子どもたちの親は今、自分たちの子どものために、本当の意味での学校にするために、補助を求めています。

 混乱の極みです。

 ニューイングランド地域に初めて公立学校ができたとき、親たちは大騒ぎをしました。自分の子どもの将来を政府が決めるのはおかしいというのがその理由でした。始まりからして不吉だったのです。その混乱が、今、再燃しています。

 公立学校に関する論争が、これほど騒がしかったことは今までありませんでした。政治家も、教育者も、公立学校に関するあらゆることを攻撃したり弁護したりしながら、首を切られたニワトリみたいにやたらに走り回るだけです。連邦政府は学校経営から全面的に手を引くべきだという意見も聞かれます。

 いちばん左の端には、教育とはデイケア(保育園)と学校をあわせたようなものだと考える人々がいます。この人々は、子どもたちは、もっともっと早い時期から外に出て、学校に行くのがいいと言うのです。こういう人たちは、ヘッドスタートプログラムを気に入っています。しかし、始まって1年後に、ヘッドスタートプログラムを始めた人自身が、次のように言ったことに気づかなかったのでしょうか。「私たちがこの計画でなにをしたかと言えば、小さな子どもに1年早く、学校はいやなところだと教えただけだった。」彼らは、子どもをぬるま湯にひたすような、心地よい教育を望んでいたのです。学校での成績がかんばしくないのは、子どもたちに自尊心が欠けているからだというのです。しかし自尊心をもたせようとして何をするのかといえば、教わった科目を理解している子どもも、わからないままの子どもも、次の学年へと送り込んでいるのです。カリキュラムも、教科書も、教材やテストもみな「平均的な子ども」を対象として作られています。しかしこの場合「平均」というのは、このうえなく平凡、あるいは可もなく不可もなく、という意味になっているのです。社会的には頭が空っぽだったり、ちょっと変だったり、並みのレベルにも達していない人たちが支配している世界です。

 こうした人々と対極の右の端には、教育とは厳しく、攻撃的で、競争に強くあるべきだと言う人々がいます。テストでよい成績をとることが重要だとするこの人々は、生徒を落第させたり退学させたりすることに積極的です。テスト、テスト、テスト。この人々は、生徒たちを互いに戦わせ、力と得点を競わせることに喜びを感じるのです。彼らの世界では、強いものだけが生き残る価値があるとされます。学校生活が永遠に続くことを願う人々です。(結局ここでの苦労が人格に影響し、困った存在の生徒たちは裏通りにたむろすることになり、なかなか仕事にも就けないことになってしまいます。)

 騒々しい論争ではありますが、しっかりと地に足の着いた論にはなっていないのです。

 子どもたちの親にとっては、どちらも恐怖の世界です。教育論争のなかでこの世を変えることのできるような意見を述べているのは、極端な右よりでも、極端な左よりでもないことがわかりました。本当の革命は、その中間にいる人々、つまり親たちの手のなかにあるのです。親たちが望んでいるのは、自分の家のリビングルームの雰囲気のある学校です。受刑者たちが取り仕切っている刑務所のようなところに子どもをやりたくないのです。

 両極端の左側にいる人々へ: 本当の意味での力量や能力がなければ、自尊心は育ちません。与えられた情報を消化し、その情報を使って問題を解決する能力を身につけさせないままで生徒たちを進級させてしまったら、彼らは自尊心をもった人間にはなれません。自尊心は能力から生まれてくるのです。「平均的な子ども」は教育の世界では気に入られているかもしれませんが、有能な教師たちは真実を知っています。

 教育の世界では最大の機密事項になっているようですが、実は「平均的な子ども」というのは実在しないのです。こういう子どもを学校でさがしても、みつかりません。

 なぜなら、子どもは一人ひとり違っているからです。何が好きで、何が嫌いか、一人ひとり違います。それぞれに異なった問題点や長所をもっています。希望も違えば、やりたいことも違っています。まったく同じ子どもは二人といないのです。

 つまり「平均的な子ども」など、いないのです。

 両極端の右端にいる人々へ: 本当の教育には、競争が入り込む余地はありません。過去においても、これから先も、それは同じです。生徒同士を競わせても、学ぶ能力や考える力が向上するわけではありません。かえってそうした能力をつける妨げになるくらいです。競争にはおじけと失敗がつきものです。必ず誰かが勝ち、誰かが負けるからです。本当の意味での知的成長は、一人ひとりが追及すべきものです。集団で歩む道ではありません。生徒と教師がお互いに尊敬しあっているような、楽しくて安全な環境の中でこそ、学ぶことができるのです。学びたい、探求したいという子どもの気持ちをくじきたいなら、テストをするのがいちばんです。学習とは、情報を取り入れ、問題を解決するためにその情報をどう利用するかを発見することです。その情報を繰り返して吐き出させられ、それを他の生徒たちと比較されること(他の生徒より劣っていることを暴かれることが多いです)を、学習とは言いません。子供たちが学校で過ごす時間は、長すぎます。あまりにも長すぎます。

 12年の判決は長すぎます。真っ昼間に銀行強盗をしたって、懲役12年の判決は受けないでしょう。(それどころが学校では、模範的な生徒でも、判決の期間が短くなることはないのです。

 左端と右端の人々の両方へ: 羊の群れはお手本にはなりません。子どもたちを羊の群れのようにひとところに集めておけば、いちばんめちゃくちゃで、正常からは遠いところにいる子どもが、全体の空気を支配します。そういう子どもは、周りの子どもたちを脅したり、いじめたりします。そのために、子どもたちの社会的環境の安全性が失われ、不安定なものになります。そんな環境のなかで子どもたちが社会的なたしなみを身につけることはできません。このような屈辱の世界は、正直で、新設で、心やさしい子どもの味方にはなってくれません。

 こういうなかで社会性は育ちません。社会性を育てる邪魔になるだけです。アメリカの親たちはみな、心の中で、そして心の底から、そう思っています。

 10年前、教育に関する大統領諮問委員会が、アメリカの公立学校制度全体について幅広く検討したことがありました。委員会による批評は痛烈でした。報告書は次のように締めくくられました。「もし現在の合衆国の学校制度が外国からの圧力で強要されているものならば、我々は戦争に訴えてでも、それを防ごうとするであろう。」

 《穏やかな革命》が始まったころ、私たちはよく、こう自問しました。「私たちは学校制度をこわそうとしているのだろうか。」こう言うと、いつも父は大笑いしました。子どもの脳の発達士たちは、熟練した建築家であり、建築士なのです。解体作業などしている時間はありません。それに、学校制度側は、自らを解体するという作業を実に首尾よくこなしているのですから、手伝う必要もないのです。

 ある日突然ベルリンの壁が崩れ落ちることを、誰が想像したでしょうか。

 子どもたちを救うために、教育戦争をしなければいけないのでしょうか。

 いいえ。穏やかな革命を進めるだけです。

 

人間能力開発研究所所長

ジャネット・ドーマン